「彼が喜ぶものを送りたい。どうすれば彼は喜ぶだろう。それは、彼の大切な私が美しくなることだ。」というわけで、自分の欲しいコートを買っちゃった。というネタがありましたねぇ。新井理恵だったかな?失念してしまった。
それはともかく、お返事、ありがとうございます。
先に書いておきますが、議論しようなぞとは思っていませんよー、念のため。(害が及ばない限りにおいて)違うものが共存するのはよいことだと信じています。
さて、というわけで、私は私の感じた違和感を書きます。
ご意見、拝読して、「なるほど、犠牲の結果が嬉しくない場合もあるな」とは、強く感じました。が、「どこからが分不相応、犠牲なのか」、と。
彼らのプレゼントは、自分たちが既に持つ「財産の一部」であり、「手元にある1ドル87セント」と、なんら変わりは無いのではないと思えます。(だから、それでいいじゃん、とは、そのとおりなんだけど。つりあわない、と思うの場合もあるだろうし。って、世間的評価を気にしてるんじゃ、たしかに見栄といわれても仕方ないが。でも、出来るだけのことを、という気持ちはあるだろうし。)
なるほど、借金してプレゼントというのは自分と、さらには相手の首をしめることであり、大いにまずいと思うのですが(海水って奴だね、自分の足を食うタコとも)、この場合は犠牲には違いないが、自分の持つものの中で、できる範囲のことですから(真水という奴だ)
そして、「犠牲でない贈り物」は、本当にあるのだろうか、ということも気になります。どんなにわずかでも、金を使えば、それはその分「犠牲」なわけだし、金でなく時間を使っても、同じですね。
(私が理想と思う)よい人間関係は、お互い譲る部分、犠牲とする部分もあって、でもトータルとしてゼロサムではなく、プラスになる、ということだと思えます。(というか、人間関係がある以上、犠牲とする部分は必ずあって、にもかかわらず人間関係があるのはそれがゼロサムではないからであるというか。)
そして…、(こんなことを書くと美談からは大いにかけ離れていくが)意識・無意識、否応に関わらず、犠牲の大きさが(恋人に限らず)人間関係において、相手の心の中での自分の位置をしる目安になるのは事実だと思います。(信用できる目安ではなく、往々にして、だますほうに使われるわけですが、残念ながら。)この場合の「犠牲」とは、金に限らず、時間、(相手に向ける)意識、を含むわけですが(たとえば、電話とか、相手の状況を覚えていると事か)。
(ちなみに、貧乏が彼らの責任、みたいな書き方も気になります。(とくに時代背景的に)どれだけ苦労しても報われず貧乏、ってのもあるとおもうので。だから、そんなの買ってる場合か、って言葉もそのとおりだけど、苦労しているのを私は知っていて、感謝しているから、わずかでもそれに報いてあげたいと思っているかもしれないし。)
あぁ、長文になってしまった。失礼しました。