比較するのが無意味」なのは分かっていて、それでも比較せずにいられないのがヒトという生き物でしょう。ヒトは、「公平」という概念に非常に敏感、いな、「公平か否かに反応する回路を脳内に持っていて、それが(自分の意識とは別に)常に働いている」のですから。(論理学により証明された事実。生物的には、もちろんまだだけど。さらに、これがあるから、互恵行動が可能となる。『徳の起源』(ISBN:4881358774)等を参照。)
そう、私は心の高と低、二つの状態を行き来するから、両方の意見が分かるんだな。
低いときの心から見ると、「比較するのが無意味」という言葉は、きれいごととしか見えまい。「そりゃ、分かってるけど、それに縛られちまうんだからどうしようもない」という感じ。
それに、例えば(あくまで例えばだ)、「二十半ばで、やってることは企業で働く連中と同じ(一日十数時間働き、徹夜が続き、ノルマがあり、精神、身体をすり減らし)であり、かつお国の科学研究・すなわち百年後を支える実動力でありながら、給料が無いどころか、借金しながら(それもできればラッキーだ)、かつ親に扶養してもらって自立もできず、かといって数年後にはおっぽり出されて、就職できるとは限らず、お先真っ暗、将来はそれまでの経験・学問を失ってフリーターとして再スタート」という状況にある人に、「比較することなんて無意味ですよ」、「好きでやってるんでしょ」、「自分で選んだことでしょ」と、言えるのか?自分は、それ以上の思いを経験して、その上でそう言ってるんだろうな、ということですよ。
というのを、書こうと思いながら挫折したのだが、結局、書くことになったな。