『食と文化の謎』(マーヴィン・ハリス著、板橋作美訳、ISBN:4006030460bk1
以前、ご推薦いただいた一冊。期待通り、実に刺激的な本だった。
様々な社会・文化を比較すると、お互いの「食べる(食べてよい)もの」と「食べない(食べてはいけない)もの」には大きな差異がある。そして、その大きな違いゆえ、ある文化から見て、別の文化に存在する食に対する偏向やタブーは、時に理不尽とも映る。例えば、インドで牛を食べないこと、イスラムの豚への嫌悪、などなど。これらは、本当に“理不尽で非合理的”なのか?それらは、“かつて、たまたまそう決められただけ”であり、これを正すことが文明化なのか?
本書において、著者はこれを否定する。それらの嫌悪・タブーは、環境・物質的な背景によって決定された“必然”であった、と。著者は、自然環境、栄養学、歴史的記録などの広範な資料に基づき、この結論を導き出す。
本書では、まず、“肉”がヒトにとって非常に高い意味があることを述べる。(以前、定住性狩猟民は、女性の採取する作物でカロリーのほとんどをまかない、男性の狩猟はあまり意味がない、って話を読んだことがあったが、それを否定する内容だな。そういえば、肉の重要性については、何かで読んだ「肉だけは家長が取り分ける」という話にもあった。)
ついで、インドにおける牛、イスラムにおける豚、アメリカにおける馬(そして昆虫、ペットなど)、(神聖・嫌悪・タブーなどにより)「食べられない肉」がなぜ存在するのかについて、「コストと利益」から明らかにする。すなわち、自然環境への適応、ヒトの農地との兼ね合い、食用以外の有用性などに基づき、「コストが利益を上回るためである」ことを検証する。特に前者の二つは、宗教による規制があるが、これも、元々あった、その地に適応した習慣を継承したものであることを示してゆく。
他の章では、(ちょっと毛色の違う)米国での牛肉消費の推移とその原因、ミルクを飲む地域と嫌う地域の差異をヒトの遺伝的違いに求め、そして、人肉食についてのコスト(詳細な記録がだいぶ食欲を失わせてくれた)といった、テーマを果敢に扱う。
とにかく、中心となるのは「食べるもの、食べないものを分けるのはコストと利益である」と言う考え方。広範な資料からコストを利益を検証することで、それぞれの文化をぶった切る。実に見事、爽快で、目から鱗。ただし、理由を後付けするのは、時にこじつけともなるため、実に危険。読者は、批判的に読むことを必要とされるでしょう。
私的にどうかなー、と思ったのは、「ミルクを飲む・飲まない文化」について。よく知られているように、ミルクを飲んで腹を壊すかどうかは、(糖が二つつなっがている)ラクトースを分解するラクターゼ(酵素)のあるなしで決定される。著者は、この酵素を持つかどうかが、「その日照環境が(特に強く)ミルク(すなわちビタミン)の摂取を必要とするかどうかによる淘汰圧」としている。だが、農耕畜産が始まったのは、せいぜい2,3万年前。こんな短期間でそれほどの遺伝的な偏りがでるものだろうか(いや、知らないのだけど)?
同時に、肌の色の濃淡についても述べられているが、これは必ずしも日照とビタミンの生産に結びつけられないという批判を目にしたことがあるし(なんだっけ。J.ダイアモンドだったか?)。
(著者の嫌う考え方なのだろうけど)分岐した際の遺伝的偏りがあって、それがために飲む・飲まない文化になったんじゃないかな。そして、飲まない(飲めない)文化は、発酵という手段によって、その不利を埋めたと思うのだけど。
しかし、おもしろい。「食文化」って、本当に不思議だと昔っから思っているのですよ。発酵食品なんて正にそうだけど、「伝統的な食生活が、現代の分析によって、健康にいいことが分かった」ということが多い。「そういうものを好む遺伝的淘汰圧(自然淘汰、性淘汰を含む)」と考えるには、前述のように期間が短い。みーむ、ってやつになるんですかね。だとしても、淘汰される機構が分からない…。